働かないと意味が価値がない?

母の場合

母は小さな島の教員の祖父と機織りをしている祖母の8人兄妹の下から4番目の生まれた。

教員の祖父は、女遊びあり、酒飲み歩く人だったらしく、お金を家に入れなかったらしい。祖母は機織りで生活を支えていたようだ。。

祖母は 上の2人のお兄さんたちが都会の大学を出すために必死で機織りをしていて、子育ては叔母や母に任されていた。

戦争で疎開中に、8人兄妹のうち2人がマラリヤにかかって亡くなったと聞き、大変な生活を送っていたんだなと思う

一番下の弟は私が育てた、育てられたとお互いに言っていたから

8歳違いの弟の育児を頑張っていたことも想像できる

祖父の意向で、男兄弟3人は大学に行かせて貰えたけど 

姉妹は高校までと決められており、私も大学に行きたかった。

と三姉妹集まれば、みんな同じことを言っていた

高校を出た母は、姉妹を頼って本島に行った。洋裁学校に行き洋裁の手伝いをしていたようだ。

あの頃は既製品が無くて 殆どが手作り。近所の人がリカちゃん人形の服を作っていたことを思い出す。ミシンで細かいレース縫い付け

失敗したものは貰ったりした。

母は姉妹おそろいの水着やお正月の服も作ってくれた。

狭い家だったが、いつも縫物をしていたことを思い出す

その仕立て物をまたぐように歩いた時、1メートルの物差しが飛んできて、足をたたかれた事を覚えている。怖かった…

いつも仕事をしていたので、姉妹に構っている暇など無か

かったと思う 

何故なら母が妹や弟を抱っこしてあやしている姿をみた覚えがないのだ。寝る時も夏休みもすっと家には居なかった

食事は作って置いていくが、子供と遊ぶ姿は無かった

母は 生活費の為に働いていた。幼児の頃覚えているのは、幼稚園に行かない私を責める母の声、黙ってブランコに揺られている私。泣き虫の妹たちと洋裁の邪魔をしないようサークルの中に入って母を見ている自分。

お見合い結婚するまで 母は洋裁で生活していたらしい。

あの頃は結婚したら、家に入るのが当たり前で、長く働くなんて

考えて無かったんだろうな…

祖母も母も子供を育てるためには働いていた。

昭和の当たり前のこと、女は家事、子育て、跡取りを生む

母はその当たり前にしたがって、働き、家の事をしていただけなのだ

  • 自分が関わって子育てをする事はしない
  • 子供の事は姉妹に相談する
  • お金のことは夫に言っても仕方ない
  • 人と同じように、生活したい

昭和の母の考えはそんな感じかなと思う。

作成者: maedasan

沖縄生まれ、結婚後北海道に移住し、20年生活。 老後は故郷で暮らしたいと沖縄に戻る 看護師歴25?年以上。いつまでも働く看護師を目指すよ

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